そこは薄暗い森の中。荒い息づかいが切迫した雰囲気を伝えてくる。その場にいるのは小学三年生程度の少年と、彼に相対する不気味な黒い影だった。
少年は現代日本ではまず見ることない不思議な出で立ちをしていた。いやそもそも、この場自体が日本である確証はなく、更に言えば同じ世界に存在しているのかという疑念すら浮かぶ。
低いうなり声をあげている黒い影のような、巨大で凶悪な生物は、自然界での進化の結果とするにはあまりに異形。

「……!」

少年は持っていたメイスの様な物を黒い影に向けると、何事かを叫んだ。
すると黒い獣の足(らしきもの)の下に光る円形の模様が現れ、淡く光る帯状の何かでつなぎ止める。
それは攻撃ではなくただの束縛だったが、黒い獣はまるで耐えきれない苦痛を受けたかのように絶叫した。
黒い獣にとって、自らを縛られることは何にも勝る苦痛なのだろう。
しかし少年は膝をついた。目も虚ろで、酷く消耗しているのは明らかだ。
黒い獣には後一つ、決め手を放つ必要があった。このままでは束縛はすぐに自然消滅する。

「――ァ!!!」

だが黒い獣は時間という解決方法を採ることはなかった。どんな手段をとろうとも、今この束縛から脱出することだけが獣の最優先事項なのだ。
魔力が集中する。呪文もデバイスも用いず、獣はその魔力と意志だけで強引に現象を顕現させんと大気を震わす咆吼をあげる。
少年が力を振り絞り作り出した結界は強固そのもの。しかし同時に、機能は物理法則のみに限定されていた。

ならば魔術的にどこか別の場所に逃れるとするならば?

獣は答えを直感的に悟っていた。



――――――――――――――――――――――――――――――



「……うみゅ」

部屋の中に、単調な電子音が響く。
発信源である机の上の折りたたみ携帯に向かって、ベットの中から腕が伸びる。かつんと人差し指の先が携帯に触れたが、力が強すぎたのか携帯は重力に従って真っ逆さまに落下した。

「……やっちゃった!?」

ベットから出ることを拒んでいた高町なのはは、その音を聞いてためらいを振り捨てた。
かなりいい音だ。壊れていなければいいんだけど。おそるおそる床に落ちた携帯を拾い上げる。

「壊れてないよ……ね?」

開いて確認してみると、液晶画面は4:31と時刻を表示していた。思わず止めていた息を吐く。

「何時になったら寝ぼけないで起きられるのかな」

小学三年生のなのはが起きるには時間が少々早するため、こんな風に寝ぼけることなど日常茶飯事。
それでもなのはが起きるのには理由がある。少しでも男らしくなろうと始めた朝の修行を兄たちと一緒に行うためには、このくらいの時間でないと間に合わないのだ。
この時間でさえ学校までには三時間しかない。あわよくば後30分は早く起きたいと思っていたが、流石に現状から考えてそれは無理そうだった。
なのはの目は半開きで、思考にもかなり靄がかかっている。

「昨日遅くまで起きてたからかな?」

寝たのは確か……2時頃だっけ? 枕元に放り出されているプログラム関係の本に目を向けながら、なのははおぼろげに思い出した。
全く私ながら健康的な生活だと、自分自身に皮肉を効かせるという無駄な行為で時間が過ぎる。

「ふあーあ……」

それにしても眠かった。このままではせっかく早く起きてまで確保した時間が再び失われてしまう。
なのはは携帯を学校の鞄の中に入れ、洗面所に向かった。
鏡に映ったのは、いつ見ても違和感を感じる自分の顔。間違われるのも仕方がないと思うほど、その造形はまるで少女そのものだった。以前は鏡を見るたびにショックを受けた物だが、今はもう耐性がついている。特に気にすることもなく蛇口をひねって水を出すと、両手ですくい顔を洗った。
そういえば、と水が滴るまつげを揺らして、ポツリと呟く。

「……なにか変な夢を見ていた気がするんだけど……」

頭の中に僅かに引っかかっていたそんな疑問は、冷たい水によって眠気と一緒に綺麗さっぱり流された。



***********************



「ふぅ」

町内一周のランニングを終えて、タオルで汗をぬぐう。心臓の脈は普段よりやや早い、心地のよいリズムだ。最近は徐々にタイムも上がり始めた。成長期、というのが始まっているのかも知れない。
嬉しいものは嬉しかったが、本当の目的から外れている以上、諸手をあげてというわけにもいかなかった。

なのはがこの修行をやり出した理由は、初対面の人間における性別誤認確率の高さの解決。これに尽きる。
100%
統計学上だから存在しうる、100人が100人という完璧な確率だった。
この確率は未だ改善の兆しを見せない。つまりなのはの身体が男の子っぽくなる、などの変化は起こっていないと言うことだ。
あの男らしい父と兄を持ちながら、この差。遺伝子を職務怠慢で起訴したいところだ。

美人の母の遺伝子が色濃い、なんてことはない。ないったらない。そうじゃなきゃ嘘だ。

「まぁ、いつかは、ね……」

希望的未来観測は人が人として生きていくために必要なのだ。もしかしたら第二次性徴を待つしかないのかも知れなかったが、なのははとりあえずこの努力を怠ることはない。
かなり切実、である。

「なのは、ご飯よ〜!」
「分かった〜!今行く〜!」

母親に呼ばれて、なのはは玄関に入ると足に巻いてある重しのマジックテープを外した。重さは両足あわせて2kg。
近頃はこの重さでも足りなくなってきたから、見かけによらず筋肉はついているのだろう。なによりもその見かけの成果を期待している以上、あまり喜ぶ気にもなれなかったが。
そんな現実から目をそらすように、足早にダイニングキッチンに駆け込む。

「いただきます」

家族一同が会したダイニングキッチンで、テーブルに座りパンを囓る。いちごジャムの甘い味が口の中に広がった。
そのまま黙々と食事を進める。
別になのはは無口なわけではなくどちらかというとそれなりに会話を楽しむタイプだ。かといって家族間に冷たい空気が広がっているわけでもない。なのはの口数を抑える原因はその反対で、高町家はやたらに仲が良すぎた。
母と父然り、兄と姉然り。
実は兄さんと姉さんは血が繋がっていないんだとか言い出しそうで、さりげに結構なストレスだ。兄にはきちんと恋人がいるし、そんな心配は無いと思うが。

「やだもぉ♪」
「あはは」

……心配ないと、思うが。

「……」

家庭内不和とは遙か遠い家族なのだから、これはこれでとても恵まれている。だけど一度で良いから静かで厳かな食卓を経験してみたかったりもする。そんなささやかな望みは、一度たりとも叶う兆しすら見せていない。

「ごちそうさま。行ってきます」

ともかくこんな甘ったるい雰囲気に朝から浸かっていると、脳みそがイイカンジにヨーグルトになってしまう。
なのはは底知れない危機感を感じつつ食事を進め、結果トースト三枚と牛乳を五分でやっつけて、家を出ることとなった。



***********************



向かう先はバス停だ。なのはの通っている私立聖祥大学付属小学校は、名門私立だけあって通うのにそれなりの学費と学力が必要になる。
だからというのは短絡的だろうが、ともかく事実として生徒用の送迎バス停はこの海鳴市とその周りの至る所に設置されていた。
なのはが向かうのはそのうちの一つで、家から歩いても数分の所にある。

やがて見えてきたバス停には、時間通りにバスが停車していた。
手すりを掴み反動を付け、勢いよくバスに乗り込む。

「あ、なのは。おはよー」
「なのはちゃん、おはよう」
「おはよう、アリサちゃん、すずかちゃん」

すぐにおなじみの声がなのはの名前を呼んだ。
アリサ・バニングスに月村すずか。今現在、一日で最も多くの時間を共有している二人だ。というかはっきり言って親友なのだが、なのははそのことを認めてないし気付いていない。
なのはは普通に一人用の座席に座ろうと試みるが、二人の「あなたの座るスペースは私達の間に決まっている」光線にあえなく沈黙した。
朝っぱらから二度目のため息をついて、なのはは二人の間に腰を下ろす。
アリサはハーフですずかは日本人。が、重要なのは血統ではなく、その遺伝子が生み出したその容姿だ。二人とも誰がどう見ても美少女クラスで、間に挟まれるなのはの心労は察するに余りある。
これで二人がなのはに惚れてでもいるならばまだ救いようもあるものの、なのはは自分が男扱いされていないことを、ここ二年間で嫌と言うほど感じていた。
それが事実かどうかは別として。

なのは再びはため息をついた。

「ねぇねぇ、私男の子なんだよ? いい加減この年になって一緒というのも問題があるかな〜って思うんだけど……」
「今更なに言ってんのよ。それにあんた見て男だって分かったの、いまんとこ誰もいないじゃない」
「み、見かけ問題じゃないよ! 私が言いたいのは……」
「はいはい。じゃあその『私』っていう一人称を直してからね。そしたら考えてあげる」
「うぐ……」

なのはは自然に使ってしまった一人称を突っ込まれ、いきなり気勢をそがれた。
改めてなのはの容姿を見れば、髪は伸ばしてリボンで結んでおり、二人に負けず劣らずの美少”女”だ。
アリサとすずかの間にいても、三人はただの仲が良さそうな同性の友達にしか見えない。
なのはの言葉に説得力は全くなかった。

しかし髪を結ぶリボンも、私という一人称も、なのはが望んでやったことではない。
全てはあの母の陰謀なのだ。
娘が欲しかったという単純かつ強力な欲望と、顔に似合わない行動力が合成された結果が今のなのはの女の子っぽさだった。

「男の子は自分のことを私というのよ」
「料理と裁縫が出来ないといじめられちゃうわよ」

山の清水の如く純粋だったなのはは、そんな七色の工業廃水の如く欲望に濁った母の意志に侵された。
なのはが母に騙されたと気付いた時には時既に遅し。三つ子の魂百まで。
なのはは無意識の内に自分を”私”と呼ぶようになっていた。

趣味にはきっちり料理と裁縫がカテゴライズされ、これは役に立つから一概に恨むことも無かったが、しかし料理や裁縫が出来ることが原因で”虐められる”こともあった。本末転倒もいいところだ。
無論、そんな輩はなのは自身が無視したり実力行使に出たりとそれなりに処理したし、女子達もアリサ達を中心に援護してくれた。
だが、その度どんどん女子グループとの仲が深まったところを考慮すると、もしかしてここまで計算ずくだったんじゃないかと、親子の縁について本気で考えたこともある。

髪もリボンも母に強制――いや、無言の圧力をかけられていると言うべきか。
一度母に黙って髪を切った時は、元に戻るまで家の中の空気がキューバ危機を数倍濃縮したが如き緊張間に包まれた。イメージの強力さに対して記憶が薄いのは、なのはの心が精神の安定のために脳の奥底に封印したからなんだろう。

そんな訳もあって、なのはリボンで左右に纏めた髪型を基本とし、趣味は料理と裁縫(しかも上手い)、一人称は私の男の子と相成った。
彼の男子としての判断材料は、着ている男子制服に限られる。
これとてははが性別を偽り、アリサ達と同じ制服を着せられる所だったのだ。幸い入学手続きを偽る危険性と、自分の男としての最後の砦を守るための、必死も必死の説得によってなんとか最悪の事態だけは回避できたが、男子の制服を着ていたところでなのはの性別が正しく認識されることは無かった。

「……一時間目って授業なんだっけ?」

なのはは沈んだ口調で訊ねた。
もうあの話題については触れない方がいいだろう。なのはが追いつめられるだけだった。

「今日は国語だよ」

すずかが答える。

「国語か〜……」
「あんた、また寝るんじゃないでしょうね?」
「だ、だって国語嫌いだし……それに佐藤先生の授業ってつまんないんだもん」

なのはの脳裏に、眠気を誘う禿頭の佐藤先生の平坦な声がよぎった。
あの抑揚に乏しい声は、国語の授業を怪しい呪文の詠唱に変貌させてしまう。

「私もなんとかフォローするけど、なのはちゃんも出来るだけ寝ないようにしてね?」
「ど、努力はするよ」

なのはは乾いた笑いで誤魔化した。



***********************



「で、結局二時間目まで爆睡ね」
「ごめん……」
「あはは、先生に名前を呼ばれてたのに完全に無視してたからね、なのはちゃん」

二時間目が完全に終了した時点で目覚めたなのはは机に向かってうなだれた。
もう学校に来てから数時間経ったはずだが、今の今まで全く記憶がないのでなのは的にはまだ朝だ。
しかし時計は確かに進んでいて、時間はしっかり経っていた。
それはつまり、社会と算数はバッチリ睡眠していたという証拠でもある。

でも私だけが悪いわじゃないもん。なのはは愚痴る。
佐藤先生の授業の睡眠効果を侮ってはいけない。最近テレビでやってる1/F揺らぎだかなんだかなんて目じゃないくらい、その効果は半端ではなかった。
なのはだけでなく男子生徒の3分の1は撃沈し、授業がまともに頭に入っている人数はむしろ少数派だと思われる。
いい加減佐藤先生も催眠療法士とかに転職を進めようと、なのはは密かに決意した。
二時間目の授業の数学まで寝てしまったのも、催眠術があまりに強力だったからに違いない。

「まぁなのはの場合、算数は別に授業受ける必要ないだろうけどさ」
「なのはちゃん、算数の成績いいからね」
「ったく、両極端なのよ。文系だろうと理系だろうと、最低限の点数はとっときなさい」
「でもやっぱり凄いよ。一つのことに優れているのは凄いことだって、私のお父さんも言ってたし」

そんな風になのはを評する二人は、当たり前みたいに学年トップの学力だった。
算数――というより数学は、なのはも相当の自信を持っていたが、それ以外の教科に関しては成績はどちらかというと悪い方だ。特に文系は見るも無惨な様相を呈している。

それに対して二人は、小学校に上がってからの三年間、主要教科から音楽美術、体育に至るまで完璧にこなしていた。
アリサなどはこの前のテストで連続全科目満点三回目という前代未聞の大記録をうち立て、「簡単で面白くないわ」などとのたまっていた。授業を受ける必要が感じられないのはむしろ二人の方だ。
以前なのはも「二人は飛び級した方がいいんじゃないかな」と聞いたことはある。
だがその結果、アリサは「なのはは私達と一緒じゃ嫌なわけ!?」の涙目で激怒し、いつも止めてくれるはずのすずかは真っ黒な微笑みを浮かべて傍観に徹し、暴走したアリサの掌底はあばら骨二本骨折という惨事を引き起こすこととなり、それ以降なのははその話題を避けている。

「でさ、昨日のテレビが……」
「ぎゃはは、マジかよ!」

少し離れた席で男子生徒のグループがバカ騒ぎをしていた。遠慮のない脳天気な笑い声がなのはの耳に飛び込んでくる。
先にも言ったがこの学校のレベルは高い。いかに阿呆に見えてもそれなりの知能は持っていた。
しかしそれでも、テストで80点をとったって別に問題はない。
一方のなのはは、100点があたりまえ、90点って<b>何それ風邪でもひいてたの?</b> と嫌味なしに本気で聞いてくるようなレベルの渦中にある。
こんな事を相対的に考えても仕方がないとはなのはも分かっていたが、自分のことを絶対的に評価するのはなかなかに難しかった。

「ねえアリサちゃん、ここのところが分かんないんだけど……」
「ああ、イオン化のところ? ここはね……」

それもこれも、そんな事を当たり前みたいに話し出す小学三年生と一緒にいるからだ。

「二人とも、休み時間ぐらい勉強から離れれば?」
「あ、ごめんね」
「そうは言ってもねー。なんか分からないがあると気持ち悪いのよね」

そもそも高校生の教科書を持っていることからしてもうアレなんだよ、なんてことは言っても無駄だと分かっているので言わない。
そんななのはに、横から女子のクラスメイト三人が近付いてきた。

「聞いてよなのは! 昨日教えてくれた通りにしたら、クッキー凄く美味しくなったよ!」

昨日の家庭科の授業で真っ黒の消し炭を作り出した三人だった。
意気消沈していた彼女たちはなのはの完璧なクッキーに目を奪われ、熱心になのはに懇願することによってその教えを受けた。
あまり乗り気ではなかったなのはだが、教えると決まれば手を抜くことはない。その成果は確実に彼女たちの実力を上げていたようだ。
なのはも悪い気はしなかったので、自然に表情も和らぐ。

「そうでしょ? 分量と焼く時間がポイントなんだよ」
「流石なのは、頼りになるよね」
「ねえ、今度別のお菓子も教えてよ」
「お菓子も良いけど、普通の料理も作ってみなよ。結構楽しいし」
「う〜ん料理か……悪くないかもね」
「じゃあ今度家に来てね! お母さん、なのは君呼べってうるさいんだから」
「分かった。じゃ、今度ね」

終始にこやかに会話を終えて、はっとなのはは気付く。またやってしまった。
なのはも一応は小学三年生。保健の教科書にも「異性を異性として認識し始め、敵対的な感情を抱く」とか書いてある年頃だ。
しかし学校の中で話しかけてくるのは今みたいに揃いも揃って女の子ばっかり。なのははいつの間にか、男の子から敵対的な感情を抱かれる側に回ってしまっていた。
なんとかしようとは思っているのだが、なのはの容姿、性格、その他諸々の要因が鉄のカーテンとなって男子との間に隔たりを作っている。
今のなのは達の会話を見て、男子達は奇異だか羨望だかわからない微妙な視線を浴びせてくる。

「あはは、こんにちは」
「……っ!」

親しげに笑いかけてみれば、顔を赤くされてそっぽを向かれた。
駄目だ。なにが駄目って、全てが駄目だ。
なのはと男子との間にかかったカーテンは、ここのところ鉄製にパワーアップしつつあった。

キーンコーンカーンコーン

「あ、授業始まるね」

そんな男子達も、話しかけてきた女子も、チャイムと同時に席に着き始めた。
なのはもさすがに三時間目まで机に突っ伏している訳にもいかないので、アリサに次の授業を尋ねる。

「次の授業って何だっけ?」
「社会科だよ」
「社会か」
「……つまんないわね」
「別にだじゃれじゃないよ」

なのはにとっては別に好きでも嫌いでもない授業だった。
歴史に興味はないし、現代社会はそれなりに新聞読んでるから別に勉強する必要もない。
成績も上々だったので、とりあえずは目標を『起き続けること』に設定する。
真面目に勉強、という選択肢はもちろん初期段階で削除されていた。

やがて女性の教師が教室の中に入ってきて、授業が始まった。
今日は経済システムについての授業だ。
なのははそんな事よりも眠気との戦いの方が重要だったので内容は全く頭に入っていなかったが、授業は物流の説明を中心に着々と進んでいく。

対眠気戦線は時間と共に戦況が傾いていって、つつがなくなのはの勝利に終わった。
しかし気付けば授業はもう終わりに近付いている。なのはが正気に戻った時には黒板には完成した商品の流通図が書かれ、先生はチョークを置いた。

「将来は何になりたいですか?」

唐突な先生からの問いに、教室が少しだけざわめく。

「皆さんはまだ小さいから決まっていないのも無理はありません。だけど先生は、みんなにただ単に勉強するだけじゃなく、何か目標を持って頑張って欲しいな」

そこで授業終了のチャイムが鳴った。
先生は黒板に書いたものを消して、教室を出ていく。
休み時間になってにわかに騒がしくなった教室の中で、なのははその質問について考え込んでいた。
開いたノートは真っ白。別にどうでも良かった。



***********************



四時間目の英語の授業はそれなりに消化して、現在は昼食の時間である。
なのははいつものようにアリサとすずかに挟まれながら、屋上のベンチでピンク色のお弁当箱をつまんでいた。
いい加減この色はやめてと訴えているが、あの母さんが願いを叶えることはまずないだろう。
かといって自分で箱を買ってきてお弁当を作れば、「お母さんはもう用無しなのね」とか言ってしなを作るのだ。
母の涙に勝てぬまま、なのはの心の中には諦めの感情が漂いつつあった。

「私はお父さんとお母さんの会社を継ぎたいかな。そのため経営学とかやろうと思ってる」
「私は機械系が好きだから、これから工学系に進みたいな」
「ふーん……二人ともしっかり考えてるんだね」

話題は授業で聞かれた質問について。
二人は案の定というべきか、九歳とは思えないほどしっかりプランを持っている。
なのはは素直に感心したが、何故かアリサの表情は優れなかった。

「ま、物心ついた時からそんな風に教えられてきたしね。別に嫌じゃないけど……」
「別に嫌じゃないけど?」

続きをなかなか言おうとしないので、すずかが促す。
するとアリサはなのはの方をちらちら見やり、お弁当の中身を箸でつつきながら、

「やっぱりお嫁さんとかにも普通に憧れるわよね」

なんて言って、頬を赤くした。

「……」
「……」
「ちょっと、なによその沈黙!!」

アリサの憤慨を受けて、なのはとすずかは顔を見合わせた。意見は完璧なまでにシンクロしている。
アイコンタクトで確認した二人は、声をぴったり重ねた。

「「アリサちゃん、結婚するためには相手が必要なんだよ?」」
「どういう意味よ!」

アリサは恥ずかしさからか顔を赤くして怒鳴り散らす。
なのははそれに対して沈黙を守りつつ、その頭の中でアリサの告白シーンを想像した。

『あ、あのさ……私、あんたのこと……その……い、いいから付き合いなさい!!』

「ぷっ……く……」
「なに笑ってんのよ!!」
「ご、ごめん。それにしてもアリサちゃん、随分面白いギャグだったへぶっ!」

アリサは顔の赤さをレベルアップさせて、問答無用でなのはの背中を蹴り飛ばした。

「毎度毎度むかつかせてくれる口……ね!」

転がったなのはの背中にまたがって、口の中に人差し指を突っ込む。
ただほっぺたを抓るぐらいじゃ終わらないのがアリサらしい。
理不尽な展開に不満を抱かずにはいられないなのはだったが、いまのアリサにはいくら抗議したところで聞き入れられそうにもなかった。

「わはっはお、いいふひは、ほへんほへん!!」
「や、やりすぎだよアリサちゃん! ちょっと落ち着いて……」
「ふんっ。私をバカにした罰よ!」

なのはの降伏に満足したのか、アリサは勝ち誇った笑みを浮かべてベンチに座り直した。
すずかが大丈夫と聞いてくれるのを、なのははやせ我慢で誤魔化す。
そんな乱暴だから結婚なんて考えられないんだよなんて事は、直後のアリサの反応を考えると口を裂けても言えなかった。二の轍を踏むほど愚かではない。

「それで? なのははどうなのよ。やっぱり翠屋の二代目になったりするわけ?」
「なのはちゃん料理上手だしね」
「うん……まぁ、現実的に考えるなら、そうだね。あと他には……」

なのははしばし顎に手を当て沈思すると、至極ふつうの表情で言った。

「システムエンジニアになって、プログラマー達をデスマーチで使い潰して高笑いするとか」
「……」
「……」

割と本気のなのはの答えに、二人は侮蔑と驚愕のハイブリット視線をあびせた。
その視線を感じてどう思ったのか、なのはは苦笑いしながらほうれん草を口に運ぶ。

「じょ、冗談冗談。あ、このほうれん草おいしー!」
「……あんた、案外黒いわよね」
「仕様変更はほどほどにね?」

こんな性格になったのも、あのダースベイダーも真っ青の暗黒面を持った母の影響が大きいのではないだろうか。場違いなほど冷静に母への恨みを募らせる。
と、そこでなのはは頬を緩ませ、静かに笑った。

「まぁ、本当のところはね、なんか漠然としてる」
「……何よ、いつもに増して冷めてるわね」
「私、自分のことしか考えられないからね。あんまり人と関わる仕事は向かないんじゃないかな」

急にシリアスぶるなのはに、アリサが少し語気を強めた。

「馬鹿じゃないの? あんたが利己的だったらなんで私達に付き合ってんのよ」
「そうだよ。私、なのはちゃんは優しいと思うよ」
「……うん、ありがとう」

なのはは友人二人に笑顔を向けたが、心中では”あの時”の事を思い出さずにはいられなかった。
幾ら言い訳しようとも過去は消えない。なのはも目を背けるつもりはない。
だからこそ利己的なのだ。
リリカルがまるで欠けてしまっていた。なのはを動かしているのはただの惰性と、なるだけ楽しく過ごすためのロジカルだけ。
別に悪いことだなんて思ってない。良かっただなんてもっと思ってない。
結論を出すことさえままならないまま、それでもなのはは今の日常は気に入っていた。
そして今日も日常を進めるために、特に考えもせず会話を続ける。

「いざとなったらアリサちゃんと結婚しよっか?」
「へ? ……え!? ちょ、ま、な、ななななn」
「……なーんて冗談だよ。私なんかじゃアリサちゃ……
 ねえアリサちゃんその構えは私の記憶が正しかったら私が護身用にって教えた技じゃなかったかなそれって大の大人でも危ないからむやみに使っちゃ駄目だよって言ったよね確かに言ったよねなのになんで今使おうとしているのかなどこにも不審者なんていないよねまさかとは思うけど私に使うなんていわないよねだってそれ本当に危ないよ危ないっていうか死んじゃうホントにやば」

ごっきゃ。



***********************



「まだ痛い……」
「う、うるさいわね! 悪かったって言ってるでしょ!」

本当に悪かったと思ってるのか思わず疑ってしまうほど大きな態度だった。
とても側頭部に回し蹴りを放ち、なのはを屋上に這いつくばらせたとは思えない。
ちなみになのはが保健室で目を覚ました頃には午後の授業は終わっていた。
保健の先生が自分に向けた「もう少しで頸椎骨折してたわよ」という深刻そうな言葉と、あらん限りの同情を込めたであろう憐憫の視線が忘れられない。

「お腹が空いたな……」

半分以上残っていた弁当は、無惨になのはの頭にトッピングされた。さっきも頭の中からご飯粒が出てきたところだ。
売店で買うことも考えたが、なのはの財布は本の大量購入によって局地的大恐慌に陥っていて、ひっくり返しても出てくるのは100円にも満たない小銭だけだった。

「お腹が空いたな」

だからこそこうやって口に出している。
いつもなら黙って家に帰って、普通にご飯を食べるだけだ。独り言を言ったところで意味はない。
しかし今は一人では無く、この言葉を聞いている相手がいた。

「お腹が空い」
「っだーもう、分かったわよ! 何か奢ればいいんでしょう、奢れば!!」

アリサが鞄を地面に叩きつけながら叫んだ。
もうヤケクソといった表情だ。
なのはは内心ほくそ笑みながら、顔には誰もがほんわかと安らぐような柔らかな笑みを浮かべた。

「え? 私はそんなこと一回も言ってないけど、そんなにいうなら……ありがとうアリサちゃん。そう言えばこの時間って公園に美味しいシュークリームのお店が開いてるんだよね。一個200円だったっけ」
「どうしてそんなにすらすら出てくるのよっ……!? なのは、あんたもしかして、私が蹴り飛ばすこと見越してあんな事言ったんじゃ……っく、覚えてなさいよ……っ!」

アリサが悔しそうな顔をしてなのはを睨み付ける。
無論なのはにそんな企みはなかった。たかがシュークリームの為に頸椎骨折は、明らかにコストパフォーマンスが悪すぎる。
しかしなのははただで起きるような性格ではないのも確かだった。

「すずかちゃんは?」
「あ、私も食べたいかな」
「ブルータス、おまえもか!?」

古代ローマの独裁者に共感を覚えながら、アリサはすずかを睨み付けた。そしてすずかは笑顔でスルー。
なのははその笑顔の裏にかなりの暗黒面を見た。
すずかちゃんが大人になったら……母さんみたいになるかも知れない。
そんなあってはならない未来が脳裏を掠め、なのはは身震いした。
その間、アリサはぷるぷる震えながら財布とにらみ合っていたが、やがて諦めたのか絶望的な表情でチャックを開けて財布をひっくり返した。

掌の上に500円玉と100円玉が落ちる。それだけ。
正真正銘、アリサの全財産だった。

アリサの両親の収入から考えて、銃弾を止められるくらいの福沢諭吉が詰まっていてもおかしくはない。
しかし残酷なのは両親の教育方針で、アリサが毎月貰えるお小遣いは雀の涙だった。
服や交通費は別支給だから何とかなっているものの、これで今週発売の漫画が買えなくなることは確実だった。

「……お釣りは、返してね」

うなだれるアリサの姿がわびしい。

「じゃあ、ちょっといってくるね」

アリサの視線を背中に受けて、なのはは軽い足取りで公園の中心に向かった。
人の金で喰うほどうまい飯はないと誰かが言ったが、今のなのはもその意見に全面的に賛成だ。
やがて目的地に到着したなのはは、お店の中にいる人の良さそうな青年に六百円を渡す。アリサの全財産はほどなくして甘そうなシュークリームに変わった。たっぷり入ったクリームのおかげで、シュークリームの入った袋は見かけ以上に重い。
なのはにとっては嬉しい重さだった。

「買ってきたよー」
「早かったわね。で? 目的のものは手に入ったの?」
「うん、勿論!」

なのはは二人の元に返ってすぐに、シュークリームの入った紙袋を開けた。
二人がその中を覗き込む。

「うわぁ、美味しそう」
「でしょー? 私もこの味をだす自信はないな」
「……なのは。一つ聞いて良い?」
「ん?」

「どうして二つしか入ってないの?」

「やだなぁアリサちゃん、日本には消費税っていうものがあるんだよ?」

なのはは笑顔で、はいとお釣りを差し出した。
掌の中に握られていたのは百円玉と五十円玉に、十円玉が三枚。計一八〇円。
そして紙袋の中にはとても美味しそうなシュークリームが二つ入っていた。

「私……の……は?」
「何言ってるのアリサちゃん。お金が足りなきゃ買えるわけないでしょ? すずかちゃん、早く食べよう」
「そうだね」
「そうだね……って無視するんじゃないわよ! あああ、レストランで子供だけステーキ食べて自分は水だけですませる薄給のサラリーマンの辛さがぁああ!!!」

アリサは頭をかきむしりながら地団駄を踏んだ。
しかしその姿は美味しそうにシュークリームをほおばる二人の視界には、まったくアリサの姿は入っていない。
それどころがすずかは、シュークリームをアリサの眼前まで持っていき、そのおいしさをレクチャーし始めるのだった。

「アリサちゃん、これやっぱり美味しいよ」
「みぃぃぃ!!」

やはり黒い。若きスズカウォーカーは暗黒面に落ちた。お前は選ばれし者だったのに!
というかこのままでは本気でアリサが壊れてしまいそうなので、なのはは救いの手を差し伸べることにした。
まぁ、原因がなのはにあるのだから、ただ遊んでいるだけとも言えなくもない。

「アリサちゃん、私が分けてあげるから、ね?」
「あ、ありがと……ってだから元はといえば私のでしょうが! ……ったく、はやく食べさせなさい」
「はい」
「あ〜……ん。もむもむ……ま、確かにこれならなのはが美味しいっていうのも無理はな」

そこまで言って、アリサは急に青い顔になる。
気になったなのはが顔を近づけると、狙い澄ましたようにアリサは口の中のシュークリームを吹き出した。
零距離射程の奇襲は、アリサが口に含んだほぼ全てのクリームをなのはの顔に的中させる。嫌な感触と共にへばりついたクリームが、ゆっくりと重力に引かれて地面に垂れた。

「何考えてんのよ!」

なぜかアリサが怒鳴った。

「いや、この場合私が怒るべきじゃ……」
「バッカじゃない!? こ、これじゃアレじゃない!」
「無視なのね……で、アレって?」
「か、か、かんせつ……」
「カンセツ?」

何でそこで関節の話が出てくるんだろうか。なのはは思考を巡らせた。
そう言えば以前アリサのツッコミが激しすぎて肩の関節が外れたことがあったなぁと思い出すが、それは今は関係ない。
直す時にアリサが余計な事をして、肘の関節まで外れたことも思い出したがこれも関係ない。というか二度と思い出したくないので、記憶の奥の倉庫に厳重封印することにした。
気を取り直して、もう一度訊ねる。

「間接がどうしたって?」
「だからそれは……」

なのはは言葉の続きを待ったが、アリサは口をぱくぱくとさせるだけで何も言わない。

「……っだー、もういい!」

待ったあげくに出てきたのは一方的な会話の拒絶だった。
無論なのはは追求の手を緩めるつもりはない。シュークリームの被害はかなり甚大で、顔全体がベタベタ。理由を聞かずに納得なんて到底出来そうになかった。
周りを歩いていた男数人がなのはを見て一斉に前屈みになったが、なのはは精神衛生上の理由でそれらを視界からシャットアウトするハメになっているのだ。
それに目の前で悶えているすずかだけは、どうにも誤魔化しようがない。

「すずかちゃん、念のために聞くけど、変なこと考えてないよね?」
「やだなぁ、そんなの聞かないで」

まだお昼よ、と。
やっぱりすずかちゃんはどこか違う。そんなことを再認識しつつ、なのははアリサから納得のいく理由を聞き出すべく、もう一度声をかけようと、

(お願い、たすけて……)

その瞬間、頭の中に妙な声が割り込んだ。

「は?」

疲れているのだろうか。なのはは人差し指で自分のこめかみを叩く。

(助けて……)

「なに、これ」

しかし声は止む気配を見せなかった。むしろだんだんはっきりしてくる。
頭の中に直接響いてきたそれは、確かになのはに助けを求めているように聞こえた。すずかの暗黒面の影響がここまで広がってきたのかと、なのはは不安に駆られる。
とりあえずの処置としてもう少し強く、今度は手首の付け根でこめかみを小突く。

「なのは、あんたいきなり何やってるの?」
「どうかした?」
「いや、ちょっと幻聴が……」
「はぁ?」

アリサが眉をひそめ、すずかが心配そうに表情を変えた。

「いよいよ遂に行き着くところまでいった?」
「なのはちゃん、シャブはちょっと……」
「二人がが普段どういう目で私を見ているかはよく分かったよ」

二人の信頼の欠片もない発言を幻聴と思いたかったが、とりあえずなのはのさしあたっての問題は現在進行形で助けを求めているこの声だ。
なのはは怪しい薬などやっていないし、睡眠不足が原因だとしても声がはっきりしすぎている。誰か別の人間が心に語りかけているとしか思えなかった。

(……私に言ってるの?)

なのはは返事なんて期待せずに、とりあえず心の中で伝えてみる。

(え!? き、君、聞こえたの?)

返事が返ってくる。どうやらあちらも返答が帰ってくるとは予想していなかったようだ。
いきなり遭遇することになった超常現象に、なのはは冷静を保てるようつとめる。

(幻聴とか私の分裂した意識とかじゃないなら、そうなるかな)
(良かった……)

完全に会話が成立した。

(説明は後でするから、今は助けて……)
(助けて……って?)

なのはは頭の中で情報を整理することにした。
唐突に語りかけてきた謎のテレパシー。彼(もしくは彼女)は、私に助けを求めてる。
<br>
なにかが始まりそうな予感がぷんぷんする。
相手は相当切迫しているようだ。ここでなのはが助けに走らねば、なにかまずいことになるのだろう。
そう言った情報を吟味した上で、なのはは判断した。

(やだ)
(ありが……ってええ!?)

相手は相当に驚いた。
当たり前だ。なんというか、ある種の常識を根底から覆すような返答だった。
端的に表現するならばあれだ。フラグを全力で叩き折った、と。

(新手のギャグ!?)
(どっちかっていうと君の方がギャグっぽいよね)

必死に現実逃避を計るどこかの誰かに、なのははしっかりと現実を叩きつけた。

(助けてって言ってるのに見捨てるの!?)
(見捨てるだなんて。私は君を見てもいないよ)
(ああそっか、ただ捨て置くだけね……ってそれはそれで酷いだろう!?)

しっかりとノリツッコミをしてくる辺り、相手もそこまで困っているわけでもなさそうだ。
より興味が無くなったなのはは、このテレパシーに受け答えするのも面倒くさくなってきた。

(私はこれからアリサちゃんがシュークリームを吹き出した訳を問いつめるという使命があるの。これが知り合いなら兎も角、会ったこともない誰かなんて関係ないし。だから興味ないどうでもいい他を当たって)
(僕シュークリーム以下!? 突然語りかけて来たテレパシーがシュークリーム以下!?)
(というか私にとって価値が<b>ない</b>ね)

なんの同情も哀れみもなく断言した。

(そんなわけだから。諦めて)

一方的に宣告してちゃっちゃと会話(らしきもの)を終わらせ、二人との会話にもどるなのは。

「さっきからボーっとしてどうしたの?」
「ううん、ちょっとベタな展開に巻き込まれそうになっただけ。それよりもアリサちゃん、理由まだ聞いてないよ」
「う……あんたもしつこいわね」
「あはは、なのはちゃんはちょっと鈍感だから」
「むむ、それってどういうこと?」
「そういうところが、ってこと」
「……すずかちゃん、時々難しいこというよね」

(ちょっとまったぁああ!)

そんな割り込みの声が頭の中に響き渡る。なのははうんざりして頭の中の声に答えた。

(もう、なんなの?)
(それはこっちの台詞だよ! なにそのベタベタでユリユリな展開!? それなんてエロゲ!?)
(ユリユリ? エロゲ? なにそれ?)

主に姉妹になったりマリア様に監視されたりしている連中のことであったが、なのはにそんな知識はなかった。

(そんなに消極的だとつかめるチャンスも逃しちゃうよ!? さあ踏みだそう主人公への一歩!)
(私このままで十分)
(……だめだこの子……)

なのはの頭に流れ込んでくる声が絶望色に染まった。
なのははそれを聞いてやっと諦めたのかと安心し、アリサとの会話に意識を戻す。

「それでアリサちゃん、ホントにどうしてなの? 嫌なら別に無理にとは言わないけど……」
「嫌っていうか……その……」

アリサはちらりとすずかに何かを請うような眼差しを向ける。

「私に振られても。そのまま説明すればいいんじゃないかな?」
「うう……」

アリサはしばらくなのはの方を見ると口を何度か開きかけて、その度に何も言わずに閉ざしてしまう。
さっきまで落ち着いていたほっぺたは、元通り真っ赤に戻りつつあった。

「さっきのは……あの……か、間接……っ! ああもう、あれよ間接キ<b>(助けてくれなきゃ呪ってやる!!)</b>だったじゃない!」

そして最悪のタイミングで再びテレパシーが割り込んできた。
おまけに言ってることも最低だ。
テレパシーを開始してから数分と立たずに、なのはの相手に対するイメージはバブル崩壊なんて目じゃないくらいに急降下した。

(酷い……普通脅迫なんてする?)
(君の方がよっぽど酷いよ! 普通だったら君が僕を助けて物語が進行するんだよ! 初っ端からフラグを叩き折ったのは君じゃないか! 僕だって出来ればこんなファイナルウェポン持ち出したくなかったよ!! とにかく今から君の頭の中に僕の位置を送るからそこに向かって走って!!!)

フラグなんて知ったこっちゃないよ。
そう言って突っぱねようとしたなのはだったが、テレパシーなんて真似が出来る相手だ。呪いが出来ないなんて保証は何処にもない。
信じる信じないは別として、それは事実。

「何で私がこんな目に……アリサちゃんごめん、ちょっと用事ができちゃった」
「いつも思ってたけどこんな事わかんないなんて、やっぱりあんたは鈍感すぎ……ってちょっとなのは、どこ行く気!? ねえ、ちょっと待ちなさい!!」

アリサの制止の声を振り切って、なのはは頭の中に急に浮かんできた場所へと走った。
足取りは重い。シュークリームを買いに行った時の気持ちとは天地の差だ。
それでも呪われるわけにはいかないと、なのはは駆ける。

「ああもう、一体何なのよ!?」
「用事って、森の中になにかあるのかな?」

取り残されたアリサとすずかは、かなりの速さで遠ざかるなのはの背中を目で追った。
アリサもすずかも運動が苦手な方ではないが、それでもなのはの速さは小学生にしては際だっていた。
伊達に体育の成績で5を取ってはいない。

「理由なんてどうでもいいわ。追うわよ!」
「ア、アリサちゃん!?」

すずかの返事を待たず、アリサはなのはの後を追った。追いつく程ではないにせよ、背中を見失うほど速度に差はない。
現時点では性差は大したことはないとはいえ、身体を鍛えているなのはと同レベルの走りは称賛に値した。

「ちょっと待ってよ〜」

その後ろをすずかが追いかける。
おっとりした見かけによらず、その足は異常なほど速かった。大分あったアリサとの差もぐんぐん詰め、その横に並ぶ。息は全くと言っていいほど乱れていなかった。
かくして三人は一分強疾走を続け、先頭のなのはは森の中で足を止めた。

((君が……))

念話が重なって、なのはとその脅迫相手は初めて顔を合わせた。
あまりに非現実的だが、状況がそれが現実であることを物語っている。
なのはの幾分下方修正された目線の先、そこにはフェレットのような動物が、満身創痍といった様子で地面に横たわっていた。



***********************



「かなり衰弱しているけど、怪我は大したことないみたい。一日休ませれば元気になるでしょ」
「よかったぁ」

いっそのこと死ねば良かった。
なのはは表面上はにこやかな顔を保ちながらも、その裏で怜悧な視線をフェレットに向けていた。
その視線に気付いているのかいないのか――恐らく後者だろう、フェレットはなのはと目線を合わせないように何もない方向を向いている。

「それにしても……高町君も良く見つけたわね」
「そうなんですよ。なんか急に走り出したと思ったら」
「いえ、ただの偶然です」

そこにいるフェレットもどきにテレパシーで脅迫されましたといっても、誰も取り合ってくれまい。
なのははこの件に関してはもう諦めの感情に包まれていた。

このフェレットを見つけた時、なのはは瞬間的に無視する道を選ぼうとした。
何のことはない、なのはは動物に関してろくな思い出がないのだ。トラウマですらある。
呪いだ何だと言われたところで、動物に関わる気にはなれなかった。
フェレットがこの槙原動物病院に保護されるに至った要因は、アリサとすずかが後から追いついたことに尽きる。

アリサとすずかは少女らしく動物が好きだった。すずかは家の中が猫で溢れているし、アリサの家にも大型犬が放し飼いになっている。
二人は傷付いたフェレットを躊躇無く無視しようとしたなのはに寒冷前線inシベリアな視線を向け、なじみの獣医に駆け込んだ。
なのははあの見かけ以上に凶悪な動物に二人が関わることを案じたが、あの底冷えするプレッシャーをかけられては「そんな動物ほっとけ」などと言えよう筈もなかった。そんなことをしたらなのはという人間が明日を拝める保証はない。
アリサはともかくとして、あのすずかのリミッターが外れることを考えると……恐怖という感情があることを後悔しそうだ。

とまぁそんな裏の力関係を知らないフェレットは、脅した結果とはいえ自分を助けてくれた(様に見えた)なのはに感謝していた。

(ありがとう……助かったよ)
(お礼なら私じゃなくそこの二人に言ってよ)
(……脅したりしてごめん。でもあの時はあれしかなかったんだ。僕は呪いなんて出来ないから、一か八かだったんだ)
(じゃあ私、騙されたんだ)

なのはは自嘲の笑みを浮かべて頭を抱えた。

(本当にごめん……)
(別にいいよ。過ぎたことはどうでもいいなんてことは言えないが、気にしたって仕方がないことは分かってる。二度と君みたいな得体の知れない動物には関わりたくないけど)
(分かってる。これからは僕一人の力で封印するよ)
(封印? 君は……)

一体何を封印するのか。
なのはは思わず訊ねそうになった心の声を封じ込めた。これ以上関わるなと言っておいて自分からその一歩を踏み出しそうになった。
過ぎた好奇心は身を滅ぼすと、小学生らしからぬ束縛を自身に施す。

「それにしても高町君、ここに来たのは久しぶりね」
「……! え、ええ、そうですね」

獣医、槙原愛は懐かしげに言った。
なのはの顔に珍しく、本当に珍しく、純粋な動揺の色が走る。それは誰が見てもあからさまに分かる変化だった。
愛は悲しげに目を細めた。

「……やっぱり、まだ忘れられない?」
「多分一生無理でしょう。それに忘れたとして、本当の私が変わる訳じゃないですし」
「あの、なのはに何かあったんですか?」
「ちょっと、ね」

事情が飲み込めない様子のアリサが愛に訊ねるが、なのははやんわりとそれを遮った。

「じゃあ、私達は失礼これで。行こう、二人とも」
「あ、うん」
「じゃあ、あの子の事よろしくおねがいします」
「分かっているわ。じゃあ、気を付けて帰ってね」

(ああそうだ、ちょっと待って)
(どうかした?)

診察室を出ようとしたなのはの頭に、再び声が響いた。

(名前くらいはと思って。僕はユーノ・スクライア。君の名前は?)
(どうせもう会わないんだから意味無いと思うけど……ま、いっか。私の名前は高町なのは)
(なのは……)
(じゃあね)

なのはは別れの言葉を伝えて、今度こそ部屋を出ていった。

しばらくして、愛はおもむろに棚にしまってあった一枚の写真を撮りだした。
比較的新しいその写真には、動物に囲まれて微笑む子供の姿が映っている。
一見して少女にしか見えない可憐さを持った子供は、その容姿をますます成長させて自分の元に訪れた。
しかし心に負った傷は癒えず、未だに痛々しく傷跡を残している。

「寂しい顔するようになったね、高町君」

写真の中のなのはの笑顔は、もはや過去の物だった。



***********************



「っふぅ……」

夕飯を済ませたなのはは、自室に入り携帯電話を机の上に置くと、目を閉じてベットの上に身を投げた。ばふんと羽毛に含まれた空気が抜ける。

今日は色々と信じられないことが起こりすぎた。あの二人に付き合っているおかげである程度の疲れには慣れていたが、それでも今日は度が過ぎる。
人間社会の常識を根底から覆す事柄は、案外近くにあった。
しかし、こういった現象を血眼になって探している人達がいる一方で、何で自分のような人間の元にそう言った現象が寄ってくるのか。なのはは性格のひん曲がった運命の女神に罵声を浴びせて、ごろんと仰向けになる。

「どうせ終わったことだし、気にするだけ無駄無駄」

自分に言い聞かせて目を閉じる。ともかく今は眠りたかった。
学校の制服もそのままに、全身の筋肉を弛緩させる。
すぐに訪れた眠気の波に身をゆだねれば、もう眠気の波が襲ってきた。

「ユーノ……ね」

最後に伝えてきたフェレットの名前。
これも無駄な情報だ。なにせもう二度と会うことのない相手の名前、使い道など何一つ存在しない。
その名前を頭の中のゴミ箱に放り込み、なのはの思考は停止した。

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