(はっ、はっ、くそっ!)

静寂。静寂の中の爆音。僕の心音。
狙っている。
奴は僕を狙っている。
館の住人、狡猾な狩人がひし形に瞳を開いて僕を見つめている。
探れ。気配を。死に物狂いで。できないはずがない。できないならば僕は生き残れないから。

(……そこだ!)

射抜くような殺気を放ってくる空間に意識を集中した。案の定何かが迫ってくる気配があった。とっさに左に飛び退る。
攻撃が外れた隙を突けばこの体の貧弱な攻撃力でもダメージを与えられるかもしれなかった。
わずかばかりの希望は、直後消えた。

(モップ!?)

飛び出してきたのは掃除用の道具。攻撃の意思を感じない倒れてきただけのモップだった。

(……フェイントか!)

嫌な予想ばかり当たる。
今度は確固たる意思を纏った攻撃が背後から襲い掛かってきた。
当たれば敗北だ。十分なスピードと鋭さを兼ね備えた攻撃を耐えるにはこの体は柔らかすぎ、小さすぎる。

(だけど……)

だが、ならば……

(当たらなければ、どうと言うことはない!!)

避ける!!!
遅延した世界の中でユーノは必死に身をひねった。階段の手すりは足場として不安定だったがそれは奴も同じこと。
案の定攻撃をギリギリでかわされた奴はバランスを崩した。その隙に勢いをつけて体当たりをしかける。
それが駄目押しとなってバランスは回復不能なまでに失われた。それでも落ちまいとする意思が叫び声となってあたりに木霊する。

「ウニャアアアアアアアアアア……!!!」

……そして奴、月村邸の飼い猫は地上三階から一気に高度ゼロまで落下した。

(ふっ、勝った……僕は勝ったぞ!)

家に入るやいなや「それでねユーノくん、さっきのことなんだけど私ぜんぜん怒ってないから。でも私これから二人と話すからユーノ君暇だよね。だからここの猫さんたちと遊んでてよ」といつもの笑顔のままユーノを何気なく肩から払った。
それからが大変だった。猫たちはフェレットをねずみとでも勘違いしているのかどんどん集まってきて、ユーノは戦場投下からわずか三十秒で包囲される事となる。
助けを求めようとなのはを探せばすでに姿は小さく、その背中は無言で死刑宣告していた。

(なのはは容赦って言葉知ってるのかな?)

一体何の刑罰で猫の群れのど真ん中に空挺強襲をかけなければならないのか。持ち前の悪運と生き汚さでかろうじて猫の襲撃はかわしきったが、魔法も使わずフェレットの身体能力を極限まで酷使したため息絶え絶えだ。

(友達なら命をかけて守るのに僕にはこの仕打ちってどうなんだろ……あれ?)

人生の無情に落ち込んでいたユーノの前に人影が現れた。

(こ、この家はメイドさんまでいるのか)

メイドさんの格好をした女性だ。というより正真正銘メイドなのだろうが、ブルジョワジーの象徴が平気で存在する月村邸恐るべし
驚きながらもユーノは眼をらんらんと輝かせた。

「あら、なのはちゃんのフェレットさん。どうしたのかな? こんなところで」

気付いたメイドさんがしゃがみこんで尋ねてくる。すると人よりも低い視点がユーノにすばらしい絶景を提供した。スカートのすそから見える純白の三角地帯、魔のバミューダトライアングル。それを垣間見ることができたのだ。
姿勢は見ようによってはM字開脚にもとれるとあってはユーノの興奮もひとしおだった。

(ぶっは……!! ナイスメイド! ナイスポーズ!! ナイスホワイト!!!)

美人・メイド・パンツ。もはやこれだけで神話が作れるぐらいの黄金メンバーだ。噴出しそうな鼻血を気合で抑えたユーノは心の中でびしっと親指を立てた。

(最高だ……)
「ニャア」
(そうだね。今ならあそこに顔を埋めても……ニャア?)

逞しく妄想していたユーノは一転、全身の毛を逆立たせてゆっくり振り向いた。
先ほどの戦闘で落下したはずの猫が早くも戦線復帰し、ユーノの背後に陣取っている。

(しまっ……!)

パンツ鑑賞に夢中になりすぎて接近を感知できなかったことを今更に悔やむ。だがすぐにユーノは心の中で吼えた。

(美人のメイドさんのパンツが目の前にある。ならばそれをなるだけ長い間見守ることが男として生まれた者の使命なんじゃないか? そうだ。男にはやらなければいけないことが、引いちゃ駄目なときがあるんだ。だって僕はメイドさんのパンツが見たいんだから!!!)

かっこよく最低なことをほざきつつ、ユーノは猫と相対した。
殺気と殺気がぶつかり合う。先ほどとは違うユーノの気迫に猫もすぐに飛び掛ることができない。それどころがユーノが押しつつある。
やがて猫がひるんで徐々に後ずさりし始めた。勝利の二文字がユーノの心に浮かび上がる。

「猫と遊ぶのが好きって聞いてるけど、猫もなついてくれてるみたいね。仲良く遊ぶのよ」

しかし頭上から降り注いだこの言葉でユーノの気がそれた。見上げれば、メイドさんは立ち上がってどこかへ行こうとしている。純白の三角形もスカートの絶妙な妨害を受け拝むことができない。
ユーノは目の前に敵がいるのも忘れて心の中で雄叫びをあげる。

(メ、メイドさん!!!)

そしてユーノはハッとした。だが時すでに遅し。猫はすっかり威勢を盛り返して自慢の爪を伸ばしている。
手を伸ばせば手に入れられるほど近かった勝機はもう地平線の彼方まで走り去っていた。

「ニャア」
(は、話せば分かる! だからその伸びたつめを引っ込めてくれ!! ひっ……うぎゃああああああああああああ!!!)



――――――――――――――――――――――――――――――



「……あれ? なんか分からないけどすっごく嬉しくなってきた」
「はぁ? なにそれ、意味分かんないんだけど」
「蹴り飛ばされてお湯を頭からかぶったのに嬉しい……まさかなのはちゃんってM!?」
「なんがMかは分からないけどとりあえず否定しておくからね」

なのはの言葉など馬耳東風といった様子ですずかは脳内会話を進行させていく。「わ、若い身空で……でも大丈夫。わたしなのはちゃんが望むならSにだってなれる!」とかなんとか。
実は年齢詐称しているんじゃないかと思うほどの耳年増ぶりだ。アリサもなのはも全く理解できないという顔をしていやんいやんと悶えるすずかを見ていた。こちらが小学三年生として相応の反応である。

「す、すずか? お〜い」
「ふふふ……ろうそくがいいのかな、かな? それとも鞭? あ、その前にちゃんと縛ってあげないとね……」
「だめだこりゃ……」

アリサは正気を確かめるためにすずかの目の前で手を振ってみたが反応がない。このまま外に出たら周りからかわいそうな目線を向けられて「ねーねーママ、あの人なんか変だよ?」「しっ! 見ちゃいけません!」的なやり取りをかわされることは確実だ。
アリサは友達として行動をともにしてきた経験から、時間以外に解決の道はないと判断した。
くだらないおしゃべりに混ざって悪乗りのも楽しいが、今日のアリサには一応それなりの目的がある。というかすずかも同じような目的を持って今日のお茶会を開いたはずなのだが気にしたら負けだ。

せめて自分だけでもと、アリサは本題を切り出した。

「ところでなのは、あんた何か悩みがあるんじゃないの?」
「え?」

いきなり踏み込んでた質問になのはは大いに戸惑った。「え」に濁点が付かなかっただけでも僥倖だ。

「最近考え事とかしてる時が多いし……」
「えと……」
「この前映画を見に行ったあとカフェに入ったけど、私はその後の記憶が曖昧なの。あの時……なにかあったんじゃないの?」

アリサは一連の出来事に関する記憶を失っていた。いや、失わされていると言ったほうが正しい。
アリサだけではなくあの事件に関わり、錯覚や勘違いではすまないほどはっきりした記憶を持った人々は皆、ユーノの使った魔法によって自ら脳の奥底へ記憶を封じ込めた。壊れた町は元通りというわけには行かなかったが、記憶がなければ証言も取れず、町のいたるところが破壊されながら犯行の目撃者ゼロという謎の事件として警察は捜査を打ち切った。
魔法というよりは魔法を応用した催眠術で、魔法文明が発達していない世界で無用な混乱を招かないように、世界を渡れる魔導師ならば必須のスキルだそうだ。
軽い催眠術で副作用などは一切ないとユーノは念を押した。そして軽いので察しのいい人間は自ら記憶を呼び覚ますこともある、とも。
アリサはそれに属する少女だ。おぼろげではあったが何かが起こったような気はしていた。
最近のなのはに感じる違和感と結びつけたのはかなり直感に頼った部分はあったが核心を突いたのに違いはない。それでもなのははポーカーフェイスを保ち続けた。

「別に何もなかったってば。あの時はアリサちゃんが眠っちゃったから家まで送ってっただけだよ」
「そ、それは分かってるけど……」

アリサもそこまでは分かっている。母にも確認はとってあった。
早めに仕事が終わったので家でくつろいでいたらチャイムが鳴ったのででてみると、眠ったアリサをおんぶしたなのはがいたのだそうだ。
「アリサちゃん疲れて途中で寝ちゃったみたいで」とだけ伝えてなのはは去って行き、目が覚めたのはベッドの上だった。
その後は夕食の席で「高町君って優しくていい子よね。それに可愛いし。アリサ、絶対に物にしなさいよ」と言われて、必死になってそんなつもりはないと否定しているところに父まで「な! アアアアリサ、お前ももうそんな歳なのか……いや、パパはアリサの気持ちを一番に尊重する。相手が高町君なら心配は要らないだろうしな」とか言うもんだからチョークスリーパーをかけたらあっけなく気絶してしまってあなたー死んじゃ嫌よーとかもう大変だった。

「だけどそれは”後”の話でしょ? 私が言ってるのは寝る前……っていうか、私なんで寝たのかも記憶にないし」

寝る前の記憶はいつでも曖昧なものだが、自分が眠くなってきた自覚はいつも覚えていた。今回はそれもない。
それに認めたくはなかったが、なのはと遊びに行くことは前々から楽しみにしていたのだ。事実映画を見終わった後もずっと軽い興奮状態だった。いくら疲れていたとはいえ眠ってしまうものなのだろうか。
アリサの疑念は尽きなかった。

「それは……」
「なにか隠し事があるなら話して。私たち友達でしょ」

さっきまでの無茶苦茶なテンションから想像もできないほど真剣な目つきがなのはを見つめていた。
真剣モードのアリサには相手も真剣になってしまう不思議な力がある。社長業を勤める両親の血筋なのかもしれない。
なのはは逡巡した。友達として包み隠さず全てを伝えるのか、友達として真実をぼやかすのか。
逡巡した末……

「……ううん、なんでもないよ」

後者を選択した。

「……」
「……」

心の奥底を見透かすようになのはを見つめ続けるアリサ。なのはも正面から応対する。
アリサの口からため息が出た。

「ふぅ……ま、あんたがそういうならそうなんでしょうね。一応信じることにするわ。色々と怪しいところはあるけど」
「あ、怪しいところなんかないよぉ」
「そう? あんたって大変なことがあっても一人で抱え込む性格してるから心配なのよね」

「心配してくれてありがと」
「べ、別に心配したわけじゃないわよ! だた隠し事されてるのが気に入らないだけ」
「え? だって今心配なのよねって……」
「私も『なのはが心配だから話を聞きたい』って相談されたんだけど」

そっぽを向いたアリサに、いつの間にかいつもの状態に戻っていたすずかが横槍を入れる。

「す、すずか!? あんたは余計なところで復活しないで!!」
「でもなのはちゃん、何かあったらすぐに言ってね? 私たちにできることなら……ううん、できないことでも力になるから」
「うん、二人とも頼りにしてる」

照れ隠しのようにアリサが紅茶を飲み干すのを見てなのはは微笑んだ。
普段は散々好き勝手にしていても、これという時は決して欠かさない気遣いが純粋に嬉しかった。
だからこそ打ち明けられない。絶対にこのすばらしい友達との関係を乱されるわけにはいかない。

決意を新たにしたなのはの頭を、唐突にあの気配がよぎった。

「っ」

近い。よりにもよって月村邸の敷地内だった。
暴走は時間の問題だろう。逃げるわけにはいかない。
なのははポケットの中のレイジングハートを握り締め、戦いに赴くことなどおくびにも出さず席を立つ。

「ごめん。ちょっとユーノくん探すついでに外の空気吸ってくるね」

友達を守るという責任と信念を背負ってなのはは歩き出す。
ただ親友の思いを、不本意とはいえ裏切っているという自覚が少し痛かった。



――――――――――――――――――――――――――――――



気配の発信源である中庭ではすでに見覚えのある小動物が待機していた。ぼろぼろの姿で恨みがましい視線をぶつけてくる。
戦う前から満身創痍だ。

「なんかぼろぼろだねユーノくん」
(敵陣の真ん中に無理やり放り出すみたいな真似しておいてその台詞はないと思うよ流石に)
「いや、ユーノくんって意外とすばしこいから逃げ切れると思ってた。何かあったんでしょ?」

その台詞にユーノは目をそらす。

(ふっ……男には例え傷ついても成し遂げなければならないことがあるのさ)
「包み隠さず言うと?」
(メイドさんのパンツは白でした)
「もう最低としか言いようがないよ」

答えは返ってこなかった。変わりにユーノを中心に見慣れた魔法陣が浮かぶ。
これが現れた後はいつもあたりが不思議空間に早変わりするのだ。
ユーノ曰く、これは封時結界といい、結界内に存在する物体の時間軸をずらす(というよりは時間因子を一時的に固定する)ことによって通常空間と擬似物理的に遮断する魔法だそうだ。
要約するとターゲット以外はなんの関係もないので好き勝手にできる空間を作る、ということ。

(結界展開完了。これで周りに被害は及ばないよ)
「ワールドカップも真っ青のスルーだね」

言いたいことは腐るほどあったがユーノの評価を更に下げておくことで気を紛らわし、レイジングハートを戦闘モードに切り替えてバリアジャケットを展開する。
ところですでに日本海溝の底に達していたユーノの評価は、このたびめでたく母なる地球の厚さ30kmに及ぶ地殻を突き破って煮えたぎるマントルにまで到達した。母なる地球を貫通してアルゼンチンまで到達することもそう遠い未来ではなさそうだ。

「それじゃ、封印に行こうか」
(まだ本格的に暴走はしてないみたいだけど気をつけてね。何があるか分からない)
「大丈夫だよ。そういう時はユーノ君を盾にするから」
(そういうのはせめて僕がいないところで言ってね)

冗談だよというなのはの笑顔に寒気を覚えずにはいられないユーノである。なにせ人間、もといフェレット爆弾にされた前科があるのだ。おととい「ねえ見て見てユーノ君、ソ連っていう国の軍隊では戦車を止めるために犬に対戦車地雷を巻きつけて特攻させてたんだって」と脈絡もなく言ってきたときはもう笑って現実逃避するしかなかった。
お互いに信用度0%を保ちながら、一人と一匹はジュエルシードの気配にむかって木が生い茂る庭の奥に進んでいった。

「最初は化け物で、次は犬。この前は植物か……今度はなんだと思う?」
(う〜ん、森の中だから、また植物とか)
「だったら楽なんだけど。一度戦った相手は対処しやすいし」
(なのはは強いからね、相手がなんだろうと油断しなければ勝てると思うよ)

そんな会話を交わしながら色々な場合を想定してプランを練っておく。
防御力が高い場合は? 飛行タイプだった場合は? 結界の限界強度は? 戦いは事前の準備で7割が決まることをなのはは理解していた。
入念に心構えしておいて損はない。

「そろそろなんだけど……ああっ!?」
(あ、あれは!!)

程なくして目標は二人の前に現れることとなった。
全身を覆う毛、鋭く研ぎ澄まされた爪、暗闇でも視力を損ねることのない眼、軽い身のこなしとそれを補う尾。
その隠し切れない野生はまさしく……

「……猫だ」
(……猫だね)

まさしく猫だった。つぶらな瞳に丸っこい体つきの子猫だった。

猫。一個人の庭でうろちょろしていても一向に問題はない。まして月村邸は猫屋敷、そんな愛玩動物などはいて捨てるほど存在している。
問題は更にもう一個『巨大』という形容詞をいただいていることであった。

「大きいね」
(大きいねぇ)

おおよそ子猫の形容詞としては不自然な単語であるが、その子猫は巨大としかいいようがないくらい巨大だった。
ぱっと見た感じ地上最大の哺乳類、アフリカゾウの二倍はある。通常こんな巨大な体では重力に押しつぶされるため生物としては存在できないはずなのだが、子猫の骨格が自重によって崩壊しているという様子もなく、いたって健康そのものである。
物理法則を明らかに捻じ曲げているのだが恐るべきは魔法の力といったところか。
しかしジュエルシードは比較的安定しているようで、巨大な子猫は巨大なだけで特に危険はなかった。初めて積極的に封印しようと思ったのに拍子抜けだ。

(……な、なのは、油断しないで! ジュエルシードの影響で凶暴化してるかも)
「そ、そうだよね! 気を引き締めて……」
「ニャ〜」

巨大な子猫はなんとかモチベーションを落とさないように気合を入れている一人と一匹には目もくれず、どしーんどしーんと地面を揺らしながら鼻っ頭の周りを飛び回る小鳥と戯れていた。
実に心和む光景である。
当然モチベーションは落ちに落ちた。

「……封印、さっさとしちゃおうか」
(そうだね)
「猫を攻撃するのは……嫌なんだけど」

今まで犬も人間も容赦なく封印してきた彼には似つかわしくない台詞を言いながら、レイジングハートを猫に向ける。
ユーノが(猫、好きなの?)と問うと、なのはは首を左右に振った。

「好きだった、かな。今は逆。特に子猫は……ね」

少しニヒルに笑いながらつぶやくように答えた。
続けて理由も聞こうとしたユーノに、これ以上立ち入るなと言いたいのか、なのはは封印用の魔力を収束させる。

「シリアル14・ふうい……」

次の瞬間、子猫に直撃したのは桜色の魔力の奔流ではなく、砲弾のように飛んできた魔法の光だった。

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