先に我を取り戻したフェイトがどこうとするが、やはり力が入らず上半身が持ち上がらない。鼻は血が固まって詰まっていたので、やがて息が出来なくなってきた。自分をどかすように伝えようとして口を動かす。

「ん〜!? ん〜ん〜!!!」

当然ながら声が出るはずはなくこもったうめき声が漏れ、なのはの口をフェイトがついばんだように見えるだけだった。後なんかちょっと舌も入り込んでくる。

「……んん!!!?」

更になま暖かい液体が口の中に流れ込んでくるにいたって、やっとなのはも意識を取り戻した。両肩を突き飛ばして身体を離そうとするとフェイトに激痛が走り、余計に口が情熱的になのはに押しつけられた。

「んんぅん!?」

頭の中をスパークさせながらなのはは気付いた。そうだ、肩が駄目なら別の場所を押せばいいじゃないか。
そしてフェイトの身体がのしかかった今、腕の可動範囲に入っていてかつ押しやすい場所を検索する。首。届かない。腰。届かない。脇腹。微妙に届かない。残るは――胸。
さて、確かに胸は『腕の可動範囲に入っていてかつ押しやすい場所』だったのだのだが、なのはの記憶回路では一つのデータがクラッシュしていた。フェイトのバリアジャケットはヘソから鎖骨にかけて丸見えなのだ。
手を付けた瞬間なのはの掌には控えめながらもふよっと柔らかい感触が伝わり、フェイトは痛いようなむずかゆいような気持ちが良いような感覚が電撃的に体中を駆け抜けた。

「んんんぁっ……!」

状況は悪化の一途を辿る。ユーノから見れば状況は凄まじい勢いで好転し続けているのだがそれはいい。
なのはがその感触にも耐えてフェイトの上半身を押し上げると、既に唾液が混ざり合ってぐちゃぐちゃになった口と口の間をキラキラひかる細い銀の橋が伝った。
ゆっくりと崩れてなのはの唇に垂れる。

「な、ななななん……な、なっ!?」

意味の分からないリズムを刻みながらなのはは口を拭った。ぬめっとした液体が唇全体に塗りたくられる。またもや逆効果だった。

「なにするにょっ!」

ありったけの肺活量で抗議すると途中で見事に噛んだ。口全体を手で覆い隠し、真っ赤な顔でフェイトを睨み付ける。
しかしフェイトの方はなのはの腰をまたいだ状態で茫然自失だ。目の焦点が合っていない。胸を隠しているはずもなく、またもや裸体を目の当たりにしたなのはの赤面具合は人類の限界を突破した。

「……あっ!」

気付いたフェイトが右腕で胸を隠しながら立ち上がる。ふらふらと千鳥足なのは疲労なのかそれとも別の原因か。なのはから50cmと離れないところでフェイトは再び腰砕けになってしまった。

「ご、ごめんなさい……」

血みどろの戦いを繰り広げていたというのに今さら謝るフェイト。対するなのはもろくに反応できずにいる。もしも今フェイトが攻撃をすれば会心の一撃を与えられることだろうが、どっちもどっちだった。
と、

「……フェ、フェイト、逃げるよ!」

アルフがフェイトの身体を持ち上げてかけだした。あまりにショッキングだったらしくだだ漏れになっていたフェイトの思考を拾い、状況はある程度把握した。使い魔であるアルフには余計な情報まで流れてきて、例えば唇の柔らかさとか甘いような味とか、アルフは必死で頭から離そうと努力はした。努力はしたが彼女も悟りを開いた僧じゃないので頬の赤みが抜けないくらいは仕方がない。
少女一人分の重さなど微塵も見せず、アルフはまるで火照った頬を冷ますかのように風を切って走る。

「え、あ、うん」

フェイトが大分遅れて返事をしたのは二つ目のビルの屋上を蹴った時だった。

(ちょ、なのは、逃げちゃうよ!?)
「へ? ……わ、わわ、分かってるってば!!」

こっちはこっちで絶対分かっていないくらいの間を開けた後、レイジングハートをデバイスモードに戻してディバインバスターを撃ち放つ。
しかしいつものような切れがなく、アルフの尻尾を焦がすことには成功したが、結局二人は封時結界から飛び出してしまった。

(あ……)
「あ……」

音もない封時結界の中に、なのはとユーノの二人が残される。二人の周囲を恐ろしく気まずい沈黙が支配した。
ユーノはそれでも鋼のような野次馬根性を発揮して事の詳細を聞き出そうと試みる。顔面に頭突きをいれて関節を脱臼させた女の子とディープなキスをするなんて、その過程に興味が湧きすぎる。主に性的な意味で。

(あの、さっきのは「事故」……)

間髪入れずなのはは断言した。

(事故って、まさかそんな「事故」……)

問答無用、といった圧力が滲み出る解答だ。ユーノはごくりと唾を飲み込み、しかし不屈の野次馬根性を奮い立たせて再度訊ねる。実に無駄な根性である。少しはその頑なさを普段も持ったらどうなのか。

(ホントの所どうなn「もう一度聞いてきたら潰すから」……はい)

だがまぁユーノなんてこんな物であった。



――――――――――――――――――――――――――――――



「ふぅ」

封時結界が解除されると世界は再び動き出した。街が色を取り戻し、人の波が流れ始める。バリアジャケットを解いたなのはは深くため息を吐いて待機状態に戻したレイジングハートをポケットにしまった。
もう夜も深い。そろそろ帰宅しなければ魔王の鉄拳制裁が下されることになるので、なのはも自分の家に向かって歩を進める。

「やっちゃった……」

戦闘が終わった今ならば多少の後悔も許されるだろう。
歩きながら、拘束から滑り抜けられたことを思い出す。あれだけ圧倒的に事を運んでいながら結局敗北するなどあまりに無様だ。油断せずに徹底してフェイトを無力化した後交渉に移るべきだった。

(でもなのは、まだたったの1個じゃないか。こっちにはもう7つもあるし、そう落ち込むことないよ)
「それは今だから言えることだよ。これであの子がジュエルシードを諦める可能性はゼロになっちゃった。せっかくもう少しって所まで追いつめたのに……」
(それは……)
「まぁ7つ持ってるっていうのは確かにかなり有利なんだけどね。残る13個のうち半分も確保すればあっちの目的が達成できるほどの数が集まらないだろうし。それでもやっぱり今回負けたのは痛いよ」

おまけに決定打があれでは。

「……」

思い出しただけで顔が熱くなってきた。これまですずかやアリサに散々じゃれつかれてきたのに、相手が変わっただけでこれほどショックを受けるとは思わなかった。もっともしたことがしたことなのでそれだけが原因とも思えないが。
敵、とだけ認識してしまえば例え相手が誰であろうと敵でしかないが、あれだけのことがあった以上それも難しい。ならばフェイトが何であるか。敵という要素を外した彼女は、なのはの目から見ても十分に端正な顔立ちであり、学校にいれば男子の視線を釘付けにすること間違い無しの美少女であった。

「だめ。アレは敵、そうだよね?」
(え?)

だから無理にでも、再び敵という箱に全てを押し込める。

「敵。そうだよね?」
(なのは……?)

もう一度自分に言い聞かせる。
認識することは、それが物であろうと人間であろうと情を移す前兆だ。アリサやすずか、家族。それで十分。増やしてはならないし、増やしたくない。

(ね、ねえ、なのは?)
「敵だよ」
(い、いや、そうじゃなくて……なのは!!)
「え?」

ユーノの大声に顔を上げれば周りに人がいなかった。信号が赤なのだからそれも当たり前だが。
驚いていると真横からクラクションがなのはの耳を殴りつける。ゴムが道路にこすれる音でリムジンが急停止した。立ちつくすなのはに向かって運転席から降りた老紳士が声を掛けた。

「お嬢さん、そんなところに立っていたら危ないで……ああ、高町様でらっしゃいましたか」
「あ、す、すみません」
「いえいえ、それよりもこれ以上車道の流れを止めるのも迷惑でしょう。家にお帰りになるのでしたら、どうですか、お送りしてもよろしいのですが」
「あ、いえ、大丈夫です。そう遠くもないですし……」

断ろうとすると、なのはは妙な視線を感じて車内に目を向けた。うぃぃぃんと音をたてて開いたドアの向こうですずかが手を振っている。アリサはムスッとした顔だが、あれはごちゃごちゃ言わずに乗れと言っている顔だ。
そろそろクラクションも鳴り出して悩んでいる暇はない。なのはは苦笑しながら好意に甘えることにした。

「なのはちゃん、あんなところでボーっとしてたらあぶないよ?」
「あはは、ごめん」

車内ではそれ以降会話はなくなった。街の喧噪も防弾防音の特殊ガラスに遮られて何も聞こえてこない。ある種の切り離された空間の中で静かな時間が流れる。

「……なにしてたの、こんな時間に」

沈黙を守っていたアリサが窓の外を見たまま言った。いつものような明るい口調はなりをひそめた、何の感情もないただの質問だ。

「ちょっと見たい本があっただけだよ」
「……そう」

嘘をついたことに少しだけ心を痛めたが、まさか本当のことを言うわけにもいかないので我慢する。

「……あの、アリサちゃん、ごめんね」

出来ることと言えば謝ることぐらいだった。アリサはぴくりと震えたが何も言ってこない。謝ると言ってもそれはアリサにとって嬉しい物ではないだろう。彼女が望んでいるのは納得のいく説明であり謝罪の言葉ではない。
また会話が途切れる。
アリサはしばらく口を噤んでいたが、ややあって口を開いた。

「……私、怒ってる」
「え?」

あまりに唐突な宣言にぽかんとする。

「すずかに言われた。親友でも話せないことがある、なのはが言えないって思うことなら私達に出来ることは待ってることだけだって。話してもらえないことは凄くむかつくけど、なのはに八つ当たりするのは最低だってわかってる。だから……
いつか教えてくれるって約束して。それならいい、かも」
「アリサちゃん……」
「なんていうか、私だってその、嫌なのよ。なのはと喧嘩なんかするの」

顔は変わらず窓の外に向いているのだが、横顔を見ると赤く火照っているのがよく分かった。随分恥ずかしいのだろう。
そんな思いをしてまで仲直りをしようとしてくれるアリサがとても可愛かった。思わず頬がほころんでしまう。すずかもくすくすと笑い出した。

「な、なによその顔! 二人して!」
「アリサちゃん、可愛いなぁ」
「んなっ!? わ、わけ分かんないこといってんじゃないわよ!!」
「何で私っ!?」

すずかにおちょくられたアリサはなぜかなのはの襟首を掴んで詰め寄ってきた。高級な皮のシートに押しつけられて後ずさりすることも出来ない。すぐそこまで迫ったアリサの顔に、ついさっきのフェイトとの衝撃的な情事が甦る。
早鐘を打つ心臓が顔に過剰に血液を廻した。

「だ、大体なのはが最初から隠したりしなければこんな……ん?」
「な、なに?」

アリサがふんふんと鼻を動かす。

「なのはってこんな匂いだったっけ?」
「えっ!?」

それはアレだけ密着していたのだから匂いくらいついても無理はない。なのはは思わず口を何度も拭う。
その様子を見ていたアリサとすずかの顔が凍り付き、一気に車内の温度が下がった。なのはは自分が失敗を犯したことを悟ったがもう遅い。たくましすぎる二人の想像力はあっという間に桃色ゾーンまで突入する。

「……なのはちゃん、何で唇を拭うのかな、かな?」
「いや、別に」
「なのは、ちょっと別に聞きたいことが出来たの。答えなさい」

命令形だった。



――――――――――――――――――――――――――――――



とある有名家具メーカーが作り上げた黒いソファに腰を沈め、ガラス張りの向こうに浮かぶ三日月を背に、アルフが慣れた手つきで隣に座るフェイトの右手に軟膏を塗っていく。左肩の関節はもうはめ直してテープで固定してある。
魔法での治療も行ったが、あくまで本人の治癒能力を高めるものでしかないため、こういった医学的な処置もできるだけ必要なのだ。
魔法と医学を上手く組み合わせるにはそれなりの知識が必要だが、アルフは戦闘の全般を補佐する使い魔として怪我の治療の教育も十分に受けていたし、フェイトもああ見えてかなりのお転婆で訓練中よく怪我をしたから、こういったことは慣れっこだった。
アルフとしては、主人の役に立てるとはいえあまり使いたくない技術だったのだが、幸か不幸かこの世界にきてから腕を振るうことは多くなっている。

「っつぅ……!」
「あっ、ごめんよフェイト、ちょっと我慢して」

手の皮はジュエルシードの放熱で焼け爛れていた。痛覚神経がひっきりなしに信号を送るので、まるで焼けた鉄棒を持ちつづけているように痛みが続く。軟膏を塗りつけるたびに痛みは耐え難いほど大きくなるのだが、これをしなければ治りが遅くなってしまう。

「うん、平気だよ」

無駄に心配させないため強がるフェイトに、アルフは悲痛な顔をしながらも丹念に治療を続ける。巻き終わった包帯の余った部分をはさみで切り、端をテープで止めて最後だ。

「終わったよ。一晩は痛むけど、いい薬を使ったし明日になれば薄皮も張ってると思う
「ありがとう、アルフ」
「別にこんなこと……本当なら怪我を代わって上げられればいいんだけど」
「そんなことないよ。私よりアルフのほうが怪我の治療は上手だし」

フェイトが冗談めかして言うと、アルフも苦笑して話題を変えた。

「報告、明日だっけ?」
「そうだよ。だから早く怪我を治さないとね。傷だらけで帰ったらきっと心配させちゃうから」

その言葉に素直に頷ければどんなにいいことか。だがアルフの中のフェイトの母、プレシアのイメージは、フェイトが言うそれとはあまりにかけ離れていた。

「心配……するかぁ? あの人が」
「母さんは少し不器用なだけだよ。私にはちゃんと分かってる」

フェイトの愛に満ちた弁護もやはりアルフは受け入れられない。ことあるごとに、いや、何もなくても気まぐれのようにフェイトを痛めつける。フェイトに対するプレシアの接し方はもはや不器用などという表現から逸脱していた。
彼女に娘への愛など微塵もない。それどころが憎しみすら見え隠れする。

「報告だけなら私が行って来れれば良いんだけど」

なるべくフェイトと接しさせたくない故の言動だったが、できるはずのないことだった。プレシアのアルフに対する態度はフェイトよりはマシだが、考えようによってはよりひどいとも言える。

「母さん、アルフがいうことあんまり聞いてくれないもんね」

あまりをつける必要はない、とアルフは思った。フェイトもうすうす感ずいているだろう。プレシアがアルフと交わすのは本当に事務的な会話だけで、アルフ個人の感情や意見などないものとして扱っている。それはアルフだけではなく、フェイト以外の人間全てにもいえることだったが。
そう、めったに他人に感情を表さないプレシアの唯一の例外がフェイトなのである。アルフにはそれがいいことかどうかはまるで分からない。

「アルフはこんなにやさしくていい子なのに」

頭に優しくおかれたフェイトの手に、アルフの耳はぴくんと跳ねた。掌を刺激しないようにしているので本当に触れるか触れないかの感触だったが、それでも使い魔にとって主人の褒め言葉は何よりの嬉しさとなる。しばらく2人は無言になり、部屋の中でぱたぱたとアルフの尻尾がソファを叩く音だけがやけに目立った。
その沈黙もアルフが破る。

「で、でもさ、あいつのことはどうする?
「あ……」

2人の中でのあいつと言えば、高町なのは以外にありえなかった。今回やっと1つのジュエルシードを手に入れたものの、未だ7つはなのはの手に握られている。これをどうプレシアに説明するのかとアルフは提案したのだが、次の瞬間には2人そろって同じことを想像してしまった。内容はプライバシーを尊重して秘匿とするが、あえて説明するならば頭文字がキで最後がスだ。間はない。

「……なんて言えばいいか、その、うん……気にしないほうがいいと思うよ、って言っても難しいと思うけどさ」
「うん」
「やっぱ……ショック?」
「……」

無言の返答は答えるまでもないということなのだろう。アルフも聞く前から分かっていた。感触を少し共有しただけで忘れることもできないのだから当事者のフェイトは大変だ。今も思い出しただけで完熟トマトのようになってしまった。

「はじ、めて……だったし……」

おまけに凄かった。大人の階段を10個飛ばしで上ったようなキス。擬音であらわすとちゅぷちゅぷのべろべろ。

「ま、まぁノーカンだよノーカン。事故だしさ、気にしないほうがいいって」
「そう、かな」
「そ、そうだよ」

豊満な胸を張るアルフだが、顔を伝う汗が自信のなさの現われだった。流石にあれをなかったことにするのは厳しいんじゃないだろうか。双方そんなことを考えているうちに口数が少なくなる。

「……あははは」
「……あははは」

やがて2人は顔を向き合わせて不自然に笑いあった。このことは一旦忘れるという暗黙の了解のようなものだった。

「問題はジュエルシードのほうだよね。あいつ、7つも持ってるんだっけ?」
「うん、そうだったと思う。私たちは1個だけ、それもほとんど運のおかげ……」

フェイトはテーブルの上に置いてある待機モードのバルディッシュに目を向けた。中にはやっとのことで手に入れたジュエルシードが1つ納まっている。手に入れるためにどれだけ努力したかを思えば1つとはいえ計り知れない価値がある。だがジュエルシードを全て集めてくるようにという命令を考えればあまりに少ない成果だ。

「完全に予定外だったね、あいつの強さは。まさかフェイトと同い年くらいであそこまで強い奴がいるなんて……」

例え管理局の介入を許したとしても、こんな辺境世界で任務に当たる局員は良くてAAクラス。フェイトの力で対応できるはずだった。それがなのはとは、最初の不意打ちを抜きにしても、二度戦って実質的にフェイトが負け。
圧倒的な魔力量と強固な防御力、容赦を知らない砲撃魔法、常識はずれの身体能力は、全てを総合するとAAA+か、あるいはそれ以上に相当する強さだ。フェイトですら同年代の魔導師と比べれば天才と言って差し支えない強さで、勉学に例えて言えば大学に飛び級しているようなものなのに。
フェイトは自分のふがいなさを嘆くようにつらそうな顔をして、

「お母さんに謝らなきゃ。1つじゃきっと意味がないだろうし」
「……私が行ってきてあげようか?」

ゆっくりと首を横に振る。

「悪いのは私だから」
「でもさ……!」
「大丈夫だよ。ちょっと怒られるかもしれないけど、お母さん優しいから、すぐに許してくれるよ」

微笑みながら頭を撫でられるともうアルフは何も言えない。
ただフェイトがかけてくれるような愛情を、少しでもフェイト自身が受けられるよう願うだけだった。

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