同時刻、という前置きは意味を成さないかもしれない。どの空間にも属さず、人類には図りきれない広すぎる空間。世界を惑星とすればそこは宇宙だった。基準となるものが元から何一つとして存在しないそこでは時間など意味を成さないのだ。
だがあえて人々がこの空間に自ら持ち込んだ時間という概念を用いるならば、今はフェイトが転移魔法を使用してから少したった頃と言える。
そんな荒涼とした空間の中を一隻の艦が悠然と進んでいた。艦腹に描かれた艦名は『Arthra(アースラ)』。かつて魔法を極めた者のみが入ることを許された空間に、進歩した魔法と科学を用いて人々が行き来できるようになったのは、多元世界の中でも屈指の技術力を誇るミッドチルダをしてつい最近のことである。
それでも過酷な環境故に世界間の通路として以外は殆ど手が付けられていないこの空間を人々は次元空間と呼び、箱船を次元空間航行艦と呼んだ。
技術の進歩により開発当初に比べれば格段に安価になり性能も向上したとは言え、一般人の手に届くほど安くはない。保有しているのは精々が億万長者か優良企業、もしくは公的機関に限られる。アースラの場合はミッドチルダが中心になって多世界共同運営の形を取っている組織、時空管理局付けの巡航L級8番艦なので後者となる。

「みんなどう? 今回の旅は順調?」

アースラの艦橋に自動ドアの向こうから一人の女性が現れた。詰めていた男性航海士二人がそれに答える。

「はい、現在第三船速にて航行中です。目標次元には今からおよそ150ベクサ後に到達の予定です」
「前回の小規模次元震以来特に目立った動きはないようですが、二組の捜索者が再度衝突する危険性は非常に高いですね。
「そう……」
「失礼します、リンディ艦長」

もう一人、女性が艦橋に入ってきた。艦長席に腰掛けた女性――リンディ・ハラオウンに持ってきたカップを差し出す。

「ありがとうね、エイミィ。……そうねぇ、小規模次元震の発生は」

そこで一度紅茶を口に含み、やはりあまり良い香りはしなかった。エイミィは上手く煎れてくれているが、所詮安物の茶葉では限界があるのだろう。無いよりはよほどマシだが今度は自費で購入してみるのもいいかもしれない。そんなくだらないことを考えながらカップを皿の上に戻す。

「ちょっとやっかいだものね」

小規模とは言え次元震、ロストロギアも絡んでいる以上油断は禁物だ。それに今回は二人の魔導師がロストロギアを巡って幾度も戦闘を繰り広げているらしい。これだけ距離が離れているのに戦闘で発生した魔力が計測できるのだから、双方かなりの実力者であることは間違いない。強大な力と力の激突はどんな現象を引き起こすのか予想がつかないのだ。

「危なくなったら急いで現場に向かって貰わないと。ね、クロノ」
「大丈夫、分かってますよ艦長」

クロノと呼ばれた少年はまだ若い顔立ちに不敵な笑みを浮かべてリンディの言葉に応えた。一枚のカードを見せつけるように斜めに構える。

「僕はそのためにいるんですから」

それが彼のアースラに置ける役割であり、誇りを持って務める職務だった。



――――――――――――――――――――――――――――――



次元空間航行艦船が発明から現在のレベルにまで到達する過程には当然いくつかの段階があり、数多くの副産物を世に送り出した。そのうちの1つが移動庭園である。移動といっても速度は鈍足極まりなく言い訳程度の代物だが、燃料などの補給を必要とする艦船と違い半永久的に次元空間で活動することができる。その特性から今は居住性を追求した庭園が金持ちの別荘などとしていくつも稼動している。
だがプレシア・テスタロッサが保有する移動庭園『時の庭園』は、安らぎや癒しという単語からは程遠い。人類を拒むと言う点では次元空間を超えた”高”次空間に漂う暗鬱で無機質な庭園は、むしろ狂気を纏う牢獄だ。
帰還したばかりのアルフは両耳を手でふさぎ、大広間とを隔てる豪奢なドアに背を向けうずくまっていた。素体の性質で抜群の感度をもつ嗅覚が聴覚が、今はひたすらに憎らしい。冷たく埃っぽい空気が意識を現実に引きずり込み、あのドアの向こうから漏れる音をしっかり捉えてしまう。

『うぅ……! うぁ……あ、はっぁぁ……!』
「……クソッ!!!」

強く強く耳を押さえつけていると頭皮が傷つき、血があごを伝って床に血痕を作った。痛みがあればこの苦悩がまぎれるのに、痛覚が壊れているようだった。より強い痛みを求めて魔道合金の壁を右手で殴りつけると、嫌な音と共に拳は軋んで皮が裂けた。結果は血痕を増やしただけで、ピシィという鞭の音とフェイトの悲痛な喘ぎ声が止まることはない。

「たったの1つ……これは……あまりにも、あまりにも酷い。酷すぎるわ」
「はい……ごめんなさい、母さん……」

光の鎖で両腕を吊り上げられながらフェイトはかすれる声を出した。全身のいたるところのバリアジャケットが破れ、その下の皮膚が痛々しく腫れあがっている。皮膚が裂けて血が流れている場所も少なくなかった。
時の庭園に帰還してから少し経って鞭打ちが始まり、それからは痛みのあまり気絶するたびに打ち付けられる鞭で目が覚める。そんなことを繰り返しているうちに時間の感覚はなくなっていた。それほどまでに痛めつけられても、朦朧とする意識の中で口にするのは謝罪の言葉だけ。
失敗してごめんなさい。期待に添えなくてごめんなさい。罰を止めて欲しいという願うでもなくただそれだけだ。

「いい? フェイト……あなたは私の娘。大魔導師、プレシア・テスタロッサの一人娘。不可能なことなどあってはダメ。どんなことでも。そう、どんなことでも成し遂げなければならないの」
「はい……」

フェイトの母、プレシア・テスタロッサはうつろな瞳で自分を見上げる娘にとうとうと語った。それは語ると言うよりも、そうであらなければならないと独り言をつぶやいているようでもある。

「はい……」
「こんなに待たせて置いてあがってきた成果がほんのこれだけでは、母さんは笑顔であなたを迎えるわけにはいかないの。わかるわね、フェイト」
「はい、わかります」
「だかららよ、だから、覚えてほしいの。もう二度と母さんを失望させないように」
「っ……!」
「痛みと一緒に」

杖状に戻っていたデバイスが再び鞭に変形し、それを見たフェイトの顔が恐怖にゆがむ。そんな娘の顔を見ながらプレシアは笑みを浮かべて腕を振り下ろした。



――――――――――――――――――――――――――――――



『うあぁ……! あっ、いっ……あぁぁっ……!!』
「なんだよ……なんだよ……いったいなんなんだよ、あんまりじゃないかあの女……!!!」

それ以上口を開いていると延々汚い言葉を吐いてしまいそうだったので、無理やり歯を食いしばって口を閉じる。

(あの女の……フェイトの母親の異常さとか、フェイトに対する酷い仕打ちは今に始まった事じゃないけど……今回のはあんまりじゃないか! 一体何なんだ? あのロストロギアは、ジュエルシードはそんなに大切なモノなのか!?)

母親にとって娘とは何よりも大切なもののはずだ。ジュエルシードがどんなに大切なものだとしても、娘に比べれば”所詮はロストロギア”のはずだ。今回、フェイトは死に掛けた。その報告もした。高町なのはと言う魔導師がいつも邪魔をしてきて、そのなのはがどんなに卑怯でどんなに外道でどんなに強いか報告したのだ。そうやって必死にジュエルシードを諦めるよう訴えたのに、プレシアは「そう、負けたのね」とつぶやいた後フェイトを呼び出して折檻を始めた。
結果的に報告したことがあんな仕打ちにつながっているのだから、アルフは自責の念に押しつぶされそうになっていた。だからこうやって自分が苦しんでいるのは仕方がない。だけどどうして、どうしてあの健気な女の子が罰を受けなければならないのだろう。それも実の母親に。

「狂ってる……!」

何もかもが狂っている。



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「あなたの使い魔から報告は受けたわ。タカマチナノハとかいう魔導師にロストロギアを7つも取られたんだそうね」
「……ごめんなさい」
「そして3回戦って2回負け、残りの1回もなんとかロストロギアだけ手に入れた」
「……ごめんなさい」
「さっきから謝ってばかり。フェイト、私はあなたに謝って欲しいんじゃないのよ。ロストロギアを手に入れて欲しいだけ」
「……はい」
「なのにあなたが持ってきたものといえば、たった1つのロストロギアと頼んでもいないケーキだけ。まさかご機嫌でもとるつもりだったのかしら?」
「ち、ちがっ……あうっ!!」

否定しようとしたフェイトに容赦なく鞭が打ちつけられた。バリアジャケットの腹部が大きく破れる。

「でもごめんなさいねフェイト、私ケーキはあまり好きじゃないの」

そう言うとプレシアはテーブルに向かい、翠屋と書かれた箱を取りフェイトの前に戻ってくる。そして中からシュークリームを掴み取るとフェイトの顔に押し付けた。
グチャリとシュー生地がつぶれ、中から漏れたクリームがフェイトの顔に飛び散る。

「おいしい?」
「っ……はい……」
「そう。じゃあもっとあげるわ」

プレシアは次々と無造作にケーキをつかみ出し、フェイトの身体に投げつけていった。ショートケーキが、チョコレートケーキが、フルーツタルトが、桃子がサービスで入れたシュークリームがフェイトを汚していく。白いクリームは傷から滴り落ちる血を際立たせ、そうしてケーキをぶつけられるたびにフェイトは心に鞭を打たれている錯覚に陥った。
最後に残ったチーズケーキが頭にぶつかって飛び散ると大広間に静寂が満ちた。少し上がった息を整えながら、プレシアはフェイトをつるし上げていた束縛の魔法を解除する。
支えを失ったフェイトはケーキの残骸の上に崩れ落ちた。

「ずいぶんこぼしちゃったわね。まだ残ってるわよ? 食べなさい」

頭上からプレシアが命じる。フェイトは万力で締め付けられているように胸が痛んだ。
お母さんは今とても大事な研究をしてるんだ。ジュエルシードを持ってくれば昔みたいに優しく笑ってくれる。そうやって自分を騙し続けなければ壊れてしまいそうだった。

「……はい」

舌を出して床に撒き散らされたクリームを舐め取る。翠屋で食べたときにはあんなにおいしかったクリームは、もうなんの味もしなかった。

「ロストロギアは……母さんの夢を叶えるためにどうしても必要なの。特にあれは、ジュエルシードの純度は他のものよりはるかに優れてる。あなたは優しい子だからためらってしまうこともあるかもしれないけど……邪魔するモノがあるなら潰しなさい、どんなことをしても。あなたにはその力があるのだから。
行ってきてくれるわね、私の娘、可愛いフェイト。タカマチナノハからロストロギアを奪うの。母さんはしばらく眠るわ、次は必ず喜ばせて頂戴」
「はい……」

プレシアは鞭を杖に戻すと、後は娘に目もくれず大広間から消えていった。
遠ざかる足音を聞きながらうずくまっていたフェイトはしばらくして母が去ったのを確認すると、立ち上がろうとして足を動かす。

「あっ……!」

しかし散乱するクリームに足がすべり強くしりもちをついてしまった。二度目、三度目、なかなか起き上がれない。四度目でやっと立ち上がると、同時にアルフがドアを破るような勢いで広間に入ってきた。

「フェイト!」

惨状を目の当たりにしたアルフはふらついているフェイトに急いで駆け寄る。

「ごめんよ、私があいつのこと話したばっかりに……大丈夫かい?」
「何でアルフがあやまるの? 平気だよ、全然……」
「なにが平気なもんか! ……まさか、こんなことになるなんて……こうならないようにあいつのこと説明したのに、こんな酷いことをされるなんて……!!」
「酷い事じゃないよ。母さんは私のためを思って、って……」

アルフは大広間に響き渡るほどの大声をあげた。

「思ってるもんかそんなこと! あんなのただの八つ当たりだ!
「違うよ……だって親子だもん。ジュエルシードは、きっと母さんにとって凄く大切なモノなんだ。ずっと不幸で悲しんできた母さんだから、私、何とかして喜ばせてあげたいの」
「だって……でもさぁ!」

この期に及んでプレシアを弁護してしまうフェイトに苛立ち、それがフェイトにとって最後の希望であることを知っているアルフは、もはや言葉にできないやるせなさを吐き出した。

「アルフ……お願い。大丈夫だよ、きっと。ジュエルシードを手に入れて帰ってきたら、きっと母さんも笑ってくれる。昔みたいに優しい母さんに戻ってくれて、アルフにもきっと優しくてくれるよ」

きっと、きっと、きっと。今までフェイトから何度この言葉を聞かされてきただろう。フェイトはプレシアが笑顔を取り戻せるように努力を重ねてきた。つらい魔法の訓練にも耐えて、邪険に扱われ続けても文句1つ言わずにひたすらにがんばってきた。そしてきっとの数だけ裏切られ続けてここまできてしまった。もうきっと、きっとは何度も使えない。あと何回かきっとと言えば、どうしようもないところまで行ってしまう。
だからアルフは、

「だから行こう……今度はきっと、失敗しないように。どんな手を使っても、あの子に勝たなきゃ」
「……ああ」

ジュエルシードを集めてもきっと、フェイトは幸せになれないんじゃないだろうか。
そんな考えてはいけないことを考えてしまった。



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さっきから笛のようなものがうるさいと思えば、それは自分の喉だった。無意識のうちに息があがっている。
この身体で鞭を振ればこうなることは分かっているのだが、あの偽者のあまりの不出来に我を忘れてしまった。失敗作だと分かってはいたが改めて見せ付けられると、まるで存在自体がこちらをあざ笑っているかのように思えてしまう。

「ヒ……ュ……ヒィ……」

プレシアは壁に手をつき服の中に備えておいた試験管を取り出した。最近はもう市販されているような薬では効果が薄いので、自分で調合したものを使っている。
中に入った緑色の液体を飲み干すと見る間に炎症はおさまり呼吸も安定した。こうして使うたびに身体は薬なしでは生きていけなくなっているのだが、どうせ治る見込みのない身体ならば寿命を縮めてでも自由に動き回れる時間が欲しい。少しでも多く、だ。一切余裕などない。それなのに、

「……使えないわね、アレは」

こともあろうに1つ。いくらアレでも7つかそこらは手に入れてくると踏んでいたが、どうやら過剰評価だったらしい。
最初から期待などしていないが、曲がりなりにも魔法素質は受け継いでいて教育も与えたのだ。ロストロギアの収集すらできないようでは何の価値もないではないか。やはり失敗作は失敗作、所詮はこんなものなのか。
そうやって感情がひたすらにフェイトをさげすむ一方で、理性は別の可能性を思索していた。

「いいえ、違うわ」

アレの戦闘能力がAAAクラスなのは紛れもない事実だ。戦闘になれば管理局の武装局員や軍人相手にでもそうそう負けはしない。そうなると邪魔をしてきているタカマチナノハとかいう魔導師はアレと同等かそれ以上の実力を持っているのだろう。
三度負けて四度目に勝つ、などという希望的観測に基づいて計画を進めるわけには行かない。負けるかもしれないことを念頭において、いざとなれば直接介入する。
幸い、あと数回程度は次元魔法を行使できる。相手が7つのジュエルシードを持っているということは、それさえ奪えば目標数に一気に近づくことができると言うことでもあるのだ。ジュエルシードを集めてくれた、そう考えれば敵魔導師の出現も悪いことばかりではない。
そして全てが終わった暁には、アルハザードへの扉を開き、愛しの”一人娘”をこの手に取りもどす。その瞬間を想像した瞬間、体中に巣食う病魔の苦痛もフェイトへの苛立ちも全てが喜びに塗りつぶされた。
アルフが狂っていると評したプレシアの行動は、彼女からすれば純粋な娘への愛に過ぎない。そして何よりも大事な娘のためには、アレの命など塵も同然だ。

「アルハザードへ……アリシア……」

長年捜し求めてきた秘法を夢に見ながら、プレシアは書類と実験器具が散乱する研究室に消えた。

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